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図書新聞経済時評1998.6.

 

経済学ニーズの矛盾

――経済学部の長期低落傾向を考える

 

橋本努

 

 経済(経営・商学)学部の志願者が激減している。今年九八年度の入試では、前年度比、八万六〇〇〇人減。率にして一〇・四%の減少である。また偏差値を五年前と比較しても、平均して三〜四ポイントの低下。経済学部は近年、長期低落傾向にあって、かなり入学しやすくなったようだ。

 なるほど不況による複数受験回避や少子化の影響で、志願者全体の数が減るのは無理もない。しかし例えば文学部の志願者は六%減にとどまり、経済学部より傷は浅い。この差はどこにあるのか。もはや「不況に強い経済学部」という神話は成り立たない。社会動向を敏感に感じとる受験生たちは、現在の経済学部に不信任を突きつけている(「大学・経済学部の研究」『週刊東洋経済』五月二−九日号)。

 それもそのはずである。これまで企業が経済学部の学生に求めてきたことは、経済学の知識ではなく、会社で「使える素材」としての質の高さであった。大学での勉強は就職に役立たないので、学生にやる気はなく、教師も手を抜いてしまう。最近の予備校では、大学で遊びたければ経済学部に行けとガイダンスしているらしいが、確かに実際、経済学部はモラトリアム人間のたまり場だ。こんなところに入学してしまったら将来どうなるのか。不安になる学生も多いだろう。加えて最近では、企業の側もあまりモラトリアム人間を必要としていない。たんに不況だからというわけではない。社会全体に経済学を学びたいというニーズはたくさんあるのだが、そのニーズを経済学部が満たしていないからこそ、企業の側も不信任なのだ。経済学教育の矛盾は、こうしたニーズのミスマッチにある。

 他方で現代社会においては、経済学がきちんと学習されていないにもかかわらず、至るところで理論経済学のビジョンが強力に作用している。金融ビックバン、規制緩和、大競争時代。『This is読売』五月号の特集「経済学は役に立つか」は、こうした時流を批判する二つの評論を載せている。塩沢由典氏は、「何でもアメリカ」方式で規制緩和や自由化を押し進めようとする一部の経済学者たちが、経済学を学びすぎた結果として、見方が通り一遍になっていると批判する。伊東光晴氏は、数理経済学を無効だとしながらも、他方では経済学者として職を得るためにはやはりそのような論文を書かなくてはならないと悲観する。猪木武徳氏の論文「競争社会の二つの顔」(『中央公論』五月号)もまた現状に対して批判的である。すなわち、最近の競争礼賛の雰囲気は、往時のマルクス経済学のいくつかのドグマを想起させるほど、観念的な理論信仰に基づくものだというのである。

 これに対してマルクスの経済学の側からは、角田修一氏の「経済学はどうなっている?」(『経済』五月号)がとても興味深い。それによると、近代経済学者たちは、現実に起こる経済の問題が、市場自体ではなく因習などの不合理さににあると考えるので、理論を信じて現実を冷たく見ていられる。しかしこのような経済学者の「生き方」こそ問題なのだ、という。

 こうした経済学批判は、しかし経済学部の学生が読むにはいかがなものか。経済学批判は、近代経済学を勉強してもムダだという「甘い誘惑」を彼らに与える。経済学批判の有効性と経済学部の教育は、実は共犯関係にある。この関係を解消するためにも、いま、日本における経済学教育の改革が急務である。

 経済学教育に対する本格的な取り組みとして、最近、経済学教育学会編『大学の授業をつくる』(青木書店、九八年)が出版された。八五年に創立された同学会は、日本ではじめて経済学教育に関する本を出版したという。このような試みを大いに評価したい。

 もう一つ、竹内靖雄氏の『「日本」の終わり――「日本型社会主義」との決別』(日本経済新聞社、九八年)を挙げたい。竹内氏は、大学を含めて日本の社会が社会主義的だと批判し、甘えを廃したタフな資本主義を勧めている。私も同感である。経済学部が市場において生き残るためには、経済学教育に対する社会的ニーズを満たすように、思い切った改革を試みていくべきではないだろうか。

 

(経済思想)